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見える情報の取得に差があることについて

人と話していると、自分が見ているものと他人が見ているものは全然違うんじゃないかと思うことが、とてもよくある。人間は、インプット→処理→アウトプットの流れが基本になっている。インプットは経験、処理は知能、アウトプットはコミュニケーションという言葉に置き換えられる。(もっとも、この言葉だけで全て賄えるわけではないが。)

アウトプットに差があることで、”コミュ障”などの言葉が生まれる。アウトプットは差が見えやすいから、余計に意識してしまうのだろう。

ところで、インプットや処理は見ることができない。同じ体験をしても、鈍感な人と多感な人ではインプットが違うし、処理能力でも差が出る。しかし、脳を解剖しても感じ方や考え方はわからない。アウトプットがないと、その人が何を感じ、何を考えたのかわからない。

しかし、アウトプットがあっても、アウトプットがその人の感じたことや考えたことを表現しているとは限らない。

(少なくとも私は)他人は自分とそれほど違いはない前提で生きている。これが、他人もそう考えているのかわからない。だが、他人が自分と同じような人間であることを期待しているのであれば、他人と明らかに違う自分の内面を見せることが不利益になるのではないか、と思ったりもする。特に、強制的に付き合いが生じる場面においては。

マンガなどの創作物では、キャラクターの考えていることがわかる。もちろん、考えていることがわかるのは妖怪だけであって、普通はわからない。だが、ネットは本音が出やすい。


書いているうちに支離滅裂になってしまった。最初に書こうと思っていたことは、「公開状態の情報に対して、認識率の差があるほどコミュニケーションは困難になるのでは」ということだったのだけど、書いてて全然まとまらなかったので、自分の中で消化できてない話題だったのだと思う。あと眠い。